人肉食と復活

キリスト教の教義では人間は死後に復活することになっているが、もし人間が人間に食べられた場合、同化された部分は誰の身体として復活するのか?

という、2世紀には既に存在したという問題設定についてのトマス・アクィナス(13世紀)の設問。まず人間の復活という教義以外に衆目が一致していた点として、消化された食物は人間と同化し、世の終末には食べた者として復活する。そのため、A が B を食べたとすると、食べられた部分も含めて B はやはり B として復活し、このとき A の一部になっていた B の一部(あるいは全部)は A が食べた人間以外のもので補われる。

アクィナスは以下のような問いを立てる。もし、人間の胎児のみを食べている人間がいて、その子供もまた胎児のみを食べていたとしたらどうなるか?

同化された人肉が元の人間として復活するならば、この子供は復活せず、その肉体はすべて他の人間として復活することになる。つまり、子供の身体が復活するのは父親が食べてきた胎児(子供の生命の核は父親の精子を通じて伝えられた、父親が食べてきた胎児である)としてか、あるいは子供が自分で食べてきた胎児として復活するということになり、子供自身の復活に際して身体を補う要素が残らない。

参考:

  • Caroline Walker Bynum, "Material Continuity, Personal Survival, and the Resurrection of the Body: A Scholastic Discussion in Its Medieval and Modern Contexts" in History of Religions, Vol. 30, No. 1, The Body (Aug., 1990), The University of Chicago Press, pp. 51-85.

1999年のオウム真理教についての雑感

YouTubeオウム真理教関係者をゲストに迎えた『朝まで生テレビ』の録画がアップされていた。地下鉄サリン事件から4年後の1999年5月当時であり、教団が開き直りとも取れる活動を拡大しているころである。この半年後にオウム新法が成立、翌年に同教団は名称を変更する。

議論の当事者として、教団とトラブルになっている自治体の代表数名と教団の広報二名が参加している。オウム側として参加したのは当時の広報副部長および地域問題対策室長。番組の構成自体が自治体とのトラブルを再現する布陣になっていることもあり、「オウム vs その他」という構図が非常に鮮明で、まともに教団を擁護あるいは代弁する発言はほとんどない。事件後であり、自治体とのトラブルという実際的な問題を扱っている以上は当然の結果だろう。

全体の印象を一言で述べれば、「話の通じない」オウムの「若者」に対して「常識人」および「純朴な人々」が困惑し続ける番組である。それもあってか、問題の重大さとは裏腹に妙に緊張感がない。こうした印象を醸す理由は論者の世代が二回りほど違うためもあるだろうと思う。徹頭徹尾すれ違い続ける議論は不毛であるが、見ていると『朝生』の予定調和的な不毛さを何かが凌駕してしまう瞬間があるように思え、ドキュメント番組として少し面白い。

議論の中心となるのは、

  • 「教団の責任をなぜ認めないのか」
  • オウム真理教は事件当時と同じ教団なのか、それとも変わったのか」

という、解決しない二つの問いである。問いの背後にあるのは、教団を理解する端緒と恐怖を抑制するための手掛かりが必要だという、「一般市民」の切実かつあくまで素朴な感情である。これらに返答を得ることが共存のための議論の最低条件であるという点で、全体は一致している。

これに対し(好意的に見れば)オウム側は稚拙ながらも戦略的な議論によって応える。責任の問題について教団は事実関係の認定(裁判の結果)を見ることが先として態度を留保する。つまり組織の議論を個人の議論に置換し、同時に判断留保を正当化する。教団としての犯罪ではないのか、という本質的な問題について教義論争にもなりかかるが、これは大部分の論者に議論放棄させることになり議題は立ち消えになる。

変わったのか、との問いについての返答でひとつの焦点となるのは、事件以後ある教義を「封印」した、というオウム側の処置である。教団代表として発言する以上、オウム側にとって最悪の事態は彼らが「信者」として、教団すなわちその宗教への疑念あるいは「反省」を漏らしてしまうということである。これを避けるために彼らは教義の運用における選択という処置で応え、教義自体についての評価は行わない(この「封印」自体が教義と犯罪の関連を自認していることになっており、オウム側の論理はやはり稚拙なのだが)。

同じ点を巡って、参加者は「教団が間違いを犯した可能性があると思わないのか」とオウム側に問う。教義への評価を避けるのと同様、これに是で応えるのは信者としての背信宣言であり、教団指導者としての背任である。また、明るみになった事実を前にして否で応えるという無邪気な「反社会性」を露呈するわけにもいかない。したがって、この問いに対して彼らは沈黙せざるを得ない。この、追い詰められて沈黙を余儀なくされるいくつかの場面がひとつの番組的なクライマックスとなる。

ほかにもいろいろと興味深い点があるのだが、この議論の膠着具合はひとつのモデルケースとして見ることができるかも知れない。集団がそのアイデンティティと直結する形で災厄をもたらした場合にどう対処するのが正解なのかという問題は、集団の成因および成員がそのアイデンティティに依存する程度が大きいほど難しい気がするが、その困難はおそらく宗教団体に限られる話でもあるまい。極端な例では戦争後の外交なども含めて。

参考:

リンクだけで摘発された件に関する妄想と驚き

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090708-OYT1T00078.htm

報道で出た掲示板サイト名などで検索すると、Google のキャッシュにはまだ当該スレッドが残っていた。どうやら少年(19)が「開設」した掲示板とはスレッドフロート型掲示板のスレッドのことで、貼られていたリンクはすべて yourfilehost のもの。

リンクを貼るだけで逮捕というのは前例がないと思うので希望的観測をまじえて妄想してみるに、警察は、アドレスを貼った者が yourfilehost に動画をアップロードした上で該当動画のアドレスを貼ったと見て捜査していたのではないか。まだ単純所持が規制できない以上、動画を所有していたことは罪に問えず、また海外サイトにアップロードすること自体も国内法では問題にできない。しかしながらアクセス元の照会などからその事実は明らかになっており、本人たちもこれを弱みと認めて50万円を払ったのではないか。

いずれにしても多少無理がある気がするが、見せしめとして一定の訴求力があることは確かだろう。しかしリンク先の動画は一部まだ生きているようで、これには驚いた。これが児童ポルノならば Abusive File として通告すれば流石に yourfilehost も消すと思うのだが…

続・はてな

「空気」などに関する思いつきのいくつか。書き直すかも知れず。

(一応、承前

そういえば、SNS には内部にユーザーの能動的関与によって形成される集団(コミュニティ)があり、2ch には「板」という同様の内部コミュニティがある。また SNS の場合は明示的にコミュニティを選択しなくとも、活動の最低単位としてユーザー各人が属人的に抱えるミクロな内部コミュニティ(つまり友達)に参加することが前提であることが多い。2ch では、構造としてあらゆるユーザーはいずれかの「板」を選択せねばならず、ユーザー同士、ユーザーと 2ch 外部との交流もそこでしか生じない。「板」に属するユーザーには「住人」という呼称があり、自らの能動性によってそこに参加する「住人」は、「板」が性格をもったコミュニティであることを自覚しその「空気」を尊重して振る舞う。「空気」の読めない者は排除される。

能動的関与によって集団に参加するユーザーには、コミュニティが抱える大小の重力と空気、つまり世間のようなものへの配慮が生まれやすいのではないかという気がする。と同時に、コミュニティの名称は明示化されたレッテルとして万人に共通に付与され、これは相手の属性の指標として分かりやすく機能する。「どこそこの板の住人」あるいは「某アーティストのファン」には言葉は通じない、したがって対話は成立しないだろう、という判断は、よいか悪いかは別にして機能的である。

一方で「はてな」にはグループなどの内部コミュニティがあるものの、多くのユーザー活動(主にダイアリーとブックマークか)はグループなどの内部コミュニティの成員という属性なしに表出する仕組みになっている。彼ら(自分も含め)は、まさしく「はてな市民」であってそれ以上の属性が見えにくい。

はてな」のユーザーというカテゴリー、つまり「はてな」というコミュニティについて考えようとするときには、内部的にも外部的にも「はてなの空気」というものを想定しがちだが、個別の印象の総和を出発点にした場合、これはいろいろなものの混成になっておそらく個人が即座に十分「読める」空気ではなくなるだろう。しかしながら、この「空気」は理解しがたいものが万遍なく醸成されているということではなく、そもそも存在しない。「空気」とはおそらく「空気を読もうとすること/読ませること」だが、多数が読むことのできない「空気」は存在しないのと同じである。であれば、「空気」の見極めを通じた「はてなコミュニティ」という属性の仮定はあきらめなければならない。「はてな」のユーザー集団が一定の性格をもつコミュニティに見える場合は、それはこうした「あるように見えるが読めない空気」に由来する部分もあるのではないかと思う。とすればその印象が「分からない」「気持ち悪い」となるのは当然である。そして(このメモも含めて)「『はてな』は云々」という「はてな」の俯瞰を前提とした「はてな論」は空転しがちになる。

この「はてな」の仕組みには、ユーザー同士が発言や活動内容のみで互いの属性を見極め、それによる互いの発見を促すという意味でよい面もあるが、「空気」を見ることのコストを節約したいユーザーにとっては所与の指標があった方が楽である。つまり、空気の読みにくい、得体の知れないという意味で「気持ち悪い」集団に属するよりは、題目の付いたコミュニティに最初から住み分けた方が気安く振舞える。内部でレトリックとしてレッテル貼りを用いつつ議論(あるいは議論のための議論という戯れ)を行なうのは、そういう意味で非常に高度な活動であって、誰もが行なう意味はない。

はてな」の名目上のオープンさが生むものはインターネット的オープンさのひとつの帰結であるとは思うが、「ソーシャル」という実社会から借りた足枷があった方が「集団のようなもの」を集団として活動させるという意味では有利な場合もあるのかも知れない。蛇足だが、「はてな」が本気でいわゆる「ふつうの」ネットユーザーに訴求しようと思えば、内部で住み分けを行うための何らかの仕組みが必要になるだろう。外から見れば「はてな」はやはりひとつの集団であり、空気を読めない集団に飛びこむという決心は難しい(そうした指標があくまで外から見た際にしか機能しないものであり、実質的には何も変えないとしても)。

はてな

はてな、などについてのメモ。踏み均された道。

はてな」とは関係なく「キモい」「気持ち悪い」という語彙は大体「違和感がある」に置き換えても意味が変わらない。そして「違和感」の背景は大体それほど理解不能なものではない。

例としては少し前に何回か「はてな」で話題になったような、「はてな」外部のサイトから見てブックマークコメントや「はてな」のコミュニティが気持ち悪いという言は、単に違うコミュニティに遭遇したという違和感の表明であることが多い。これは「はてな」が性格のあるコミュニティの形成に成功したということと同じ。

トラブルの際。サイト主がブックマークコメントに感じた違和感への反論として「WWWで公開するからには反応に対して相応の覚悟が必要」という正論があるが、これはサイトとブックマークコメントの関係においては考えるとブックマークコメントにもまた「相応の覚悟が必要」になることが期待される。これはほとんど矜持の問題だが、実名ブログなどの場合は問題になりやすい。ブックマークコメントは一覧表示における責任者が不在になるため、物理的に「個」対「個」ではなく「個」対「はてなユーザー複数」という構図になりやすく、さらに各はてなユーザーは没個性的に見える構造になっている(コメント文字数が制限され、タグが共有される、といういわばSBMの宿命)。単にこれに甘んじているように見える者もいるが、むしろヘビーユーザーはそうした仕組みを駆使して能動的に振る舞っているようにも見える。ソーシャルメディア(というか集団一般)への参加者は、必然的にある程度個を捨てて(その対価としての庇護を得て)集団として振る舞う。

はてな」、とくに「はてブ」のユーザーのアクティヴな部分集合は、本人たちがどうであれ、外見だけ見ていると統率の取れた集団のように振る舞う…というと少し言い過ぎか。しかしこれは SNS の内部コミュニティではなく、名目上は題目無しのオープンなものだが、どうしても集団に見える。2ch の匿名の集団とも少し違う。「ゆるくつながる」を標榜し「村」を自称する所以はこうしたところにもあるだろうか。しばらく見ていると、自分の目が決まったメンバーを指標にして勝手に既視感を形成する。

「立場を離れて」

本人の著書やブログは読んでいないが、ちょっとしたきっかけで例の発言について二周遅れくらいで思ったこと。

例の「取締役という立場を離れて」という発言は叩かれたが、あれは結局、梅田望夫が不特定の受け手に対峙する技術だと述べていた「純粋な個人として発言する」という作法の愚直かつリテラルな実践であったように思える。そうした手法は理想論であって現実には通用しないことが明らかになったわけだが、「釣られる」作法としては、リテラルに真に受けるのがゲームとして正しかったのかも知れない。梅田にとっては、あれに対する「取締役がユーザーをコケにした」という反応は結局「読まずに批判」という同じことの堂々巡りだろう。

とすると、建設的に反応する義務も意欲もない受け手にとっては、これまでに数知れなく発言された(であろう)「はてなユーザーは云々」という匿名コメントのように無視するのが正解だったということになるが、梅田があくまで自分のルールを貫いた場合は、無視されたとしても騒動と同じくらいのダメージがあった(少なくともそのように受けとった)のではないかと想像する。

というわけで文脈なしにあれを見ると、発言の前段は彼なりの理想論であると同時に理想を愚直に信ずるというポーズだったと思えるが、それがただのポーズなのか、どうなのか。いずれにせよ今となってはどうでもいいことだが、凡人がここから得られる教訓としては…やっぱり「バカ」と断絶は最終手段、ということか。

それは技術なんですよ。何事も練習しないと。[…]

僕は、ネット上でどう振る舞うと不特定多数とうまくやっていけるのかということを体で分かるようになってきました。ずいぶん時間的な投資をしてきましたからね。だから全然怖くないんです。やってはいけないことが分かっているから。[…]

本を読んでそれに対する感想をブログに書いたり、日常生活でこんな楽しいことがあったと書いたりとかしたときに、そんなところに変なことを言ってくる人はいない。

しかし、イデオロギーとか政治にかかわることとか、あるいはアイドルをけなすとかはだめ。[…]

それから書き手の立場にもよります。個人はたたかれにくい。一方で、組織はいろいろなことがある。[…]

純粋な個人というのはそんなに責められる要因がないから、自分の考えを言うのは大丈夫な場合が多い。

http://sankei.jp.msn.com/economy/it/080101/its0801010826003-n1.htm

はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。

http://twitter.com/mochioumeda/status/996601415