血液型による「差別」、あるいは私はどのように血液型占いを理解しようと試み、ほぼ傍観者と称しうる存在としての自己を見出しかけたか

差別、とまでいわれるからにはそういう差別はあるのも知れない。自分は見たことも聞いたこともないが、想像できないほど突飛なものでもない。幸いにして何型がどういう性格、とか相性がどうこう、といった話題には参加したことがないので (というか興味がないので聞いたとしても忘れている)、若干おかしな認識をしているかも知れないが、はっきりいえば (私にとって) 血液型はそのものからして、輸血や手術などといった事態に遭遇するまでは妄想かオカルトに過ぎないのだろう。そういう認識が褒められたものであるかは知らない。

以下は何ひとつ調べも考えもしていない日本語の練習。

  • 血液型が便利なのは「目に見えない」ことである。そもそも血液型とは何かを具体的に理解している人はほとんどいないだろう。そしてそれは人種を越え、属人的であり、原則として変化しない。こうしたものが何やら医学・生理学的に存在しているとすれば、それをもって人間に普遍的な「内面」あるいは「性格」を具現するもの、と妄想することは不可能ではない。
  • 目に見える場合はどうかといえば、皮膚の色を話題にする場合や「水平方向に難のある体型」とかいう冗談めいた言い回しもあるように、それはただちに pc に抵触しかねない話題になってしまう。なぜかといえば、本人の責を問えない属性に基づく価値判断を導くからである。
  • 骨相学が pseudo-science と看破されたのは比較的早かったと思うが、一般化していえば肉体的 or 外見的特徴をもって内面あるいは知性などを推し量ることに科学的な根拠を与えることは困難である、という認識は一応常識となっているように思う。ただし、これは社会的には、あくまで最初は外見で判断する、という人間の本能的な性向に対する理性の側のカウンターバランスとして機能している認識である。
  • さて、血液型が「目に見えない」ということを考えると、血液型による「性格判断」はこうした容貌差別の問題とは重ならない。容貌による差別の問題が「本能的な判断を理性が適切に制御することによって社会秩序を好ましく維持する」ことにより解決されるとすれば、血液型性格判断の問題は「無根拠な思い込みを理性が制御することによって…」となるべきであろう。
  • つまり血液型で人を判断することについては「外見で判断してはいけません」ではなくて、「それは判断ではなく思い込みであり、思い込みはいけません」と述べねばならないということになるが、後者の方が困難な指示であることは容易に想像がつく。前者であれば「外見ではなく言動で」と言えばよいわけだが、後者ではそう簡単に代替物を与えることができない。「性格」や「相性」といったよく分からないものの内奥に直球で解を与えるにも関わらず、徹底して根拠を欠く。それは従来「占い」の担当する分野だったはずだが、それを「判断」と呼んでしまうと、その盲信の無根拠性が問題の中心に来てしまう気がする。
  • 外見による差別ではない、という意味では部落差別や学歴差別 (?) に近いのではないかと思えなくもないが、それらはいずれも制度史などに由来を求めることはできるだろう。「時代は変わった」、だから差別は撤廃すべきである、という要請には説得力があるが、明示的かつ不当な根拠を欠く差別を批判することはそれほど容易ではない。「あの人は生理的にダメ」、というところで停止している思考と近いかも知れないが、嫌悪感といった感情すらその「判断」の根拠ではないというところが決定的に異なる。
  • 血液型の話は「占い」だと思っていた。というか、今もそう思っている。いつのまにか「性格判断」という呼称をよく聞くようになった。元祖の学説がそういう用語を用いていたのかも知れないが、これは批判する側の言説が頻用したものではないかという気もする。
  • 「占い」を本気で批判する人はいないだろうが、その元凶が「性格判断」であるなら論難する意味があると思う人はいるのかも知れない。さらに「差別」となればなおさらだろう。
  • 外部も序列も形成しない「判断」と「差別」は違うものではないか、とは思うわけだが、「血液型性格判断」が、「排除されるべき血液型」というものを判断させてしまうとしたらこれはぞっとしない。
  • 「占い」なのか、「性格判断」なのか、「差別」なのか。個人的には占いの域を越えた、という気はしない。そして日本人は占いには非常に寛容である。
  • 根拠のない様々な「占い」が毎日テレビで垂れ流されているわけだが、個人的には血液型云々よりもあれを何とかしてほしい。
  • あれを許容する精神というのは結局ある種の宗教的傾向に寛容なそれであるように思う。超越性への指向を欠くという意味では反・宗教性、あるいは (語の本来の意味で) オカルト的なものと言い換えてもよい。すなわち宮崎アニメを絶賛し、『アバター』を何事もなく受容してしまう精神であり、「神も仏も」と一息に言ってしまえるその精神である。
  • 公共の電波で「あなたのオーラは…」とか言っているスポンサー付きのオカルト番組が放送される国に、血液型で「占い」、「判断」し、「差別」する人間がいたとしても、別に不思議なことではない。差別が問題であることは言うまでもないが。
  • しかし、私には血液型を含めて「占い」の面白さが皆目分からない上に、不利益を被ったこともなく、周囲にも身内にもそんな人はおらず、目くじらを立てて批判する気にもならない。
  • というところでここがひょっとして血液型を巡る問題の外部なのか、と思い至ったわけだが、こうした「差別」はおろか「占い」や「判断」さえしない/されない、かつて一度もしたこと/されたことがない、あるいはその記憶がないという、血液型ゲームの傍観者はどれくらいいるのだろうか。僥倖と感謝すればよいのか、無関心と非難されるべきなのか。傍観者という名の自覚なき被差別民なのか、あるいは自覚なき加害者なのか。
  • 見たことがないものを妄想で書いているわけなので、傍観している、と述べるのもおこがましい話ではある。