夜警の肖像_3:マーク・チャップマン

マーク・デヴィッド・チャップマン(Mark David Chapman, 1955.5.10)がマリファナとドラッグに耽溺する日々に終止符をうち、クリスチャンとして生きる途を選択したのは16歳のときだった。社会人として最初に選択したのはYMCAが青少年に向けて開催している夏季キャンプのカウンセラーの職である。子供たちの人気は高く、国際派遣プログラムにも参加し、レバノンへ短期滞在したのちヴェトナム難民のアメリカ亡命を支援する活動も行なった。1976年のはじめ、難民支援活動の終了後にテネシーの大学で知りあったガールフレンドと交際を始める。しかし、ただ一度自らが行なった不義行為に次第に精神を苛まれるようになり、学業は停滞、抑鬱的になって自殺を考えるようになった。
まもなくチャップマンは地元へ戻って警備員として働き始めるが抑鬱は続き、ある時、ハワイへ移り住み、貯蓄を使い切った後に自殺することを思い立つ。計画通りにホノルルへ飛び、持ち金を使い果たすが自殺を行うことができず、再び郷里へ帰った。実家で両親と対立した末、再び1977年5月にハワイへ飛ぶ。自動車の排気ガスで自殺を図るが、用いたプラスティックのホースが排気管の熱で溶け、死ぬことができなかった。発見されて病院に収容された後、重篤抑鬱と診断されて精神科に入院する。退院した後この病院でギター演奏などのヴォランティアを続け、結局職員として1978年4月まで留まった。このころチャップマンの両親は離婚手続を行なっており、母親がハワイへ移って一緒に暮すようになった。
ようやく抑鬱状態を脱したチャップマンは世界を周遊する六週間の旅行を実施する。立ち寄ったのは東京、ソウル、香港、シンガポールバンコク、デリー、イスラエル、ロンドン、パリ、ダブリンなどである。このとき旅行会社の担当として知り合った日系アメリカ人女性と交際を始め、1979年の2月には結婚へと至る。しかし安定した生活は続かない。結婚生活を支えるために、入院していたのと同じ病院で印刷技術者として勤務するようになるが、まず妻の上司と口論して彼女を退職させ、自分の職も失ってしまう。彼は夜間警備員として再就職し、次第に酒に溺れるようになっていった。この時期チャップマンは現代アートへの傾倒を深めてゆく。ダリやロックウェルといった高価な画家の絵画を次々に購入するが、これらは再就職したばかりの警備員の給与で賄える額ではなかった。この負債から脱却するために翌年3月から妻とともに厳しい倹約生活を始め、8月の半ばには大方の借金を返済することに成功した。
浮沈の激しい結婚生活は、さらにチャップマンの妄執に次第に狂わされてゆく。チャップマンは少年時代に読み耽った『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデン・コールフィールドの世界と自らの少年時代とを綯い交ぜにし、改名を考えるほどにこの虚構に没入してゆく。ホールデンが決して彼を裏切らなかったことはチャップマンにとってひとつの幸福であったかもしれない。しかし同じく少年のころから取り憑かれてきたもうひとりのヒーローは虚構の世界の住人ではなかった。この生身の男はニューヨークに住み、神を軽々しく語り、今や自分と異なる世界に住む者となっていた。
1980年10月23日、チャップマンは警備員を退職し、4日後に銃を購入。ニューヨークへ行ったものの弾薬をうまく調達できなかった一度目、映画『普通の人々』を観て「悪魔を克服した」と思い帰路に着いた二度目に続き、チャップマンが彼を裏切ったその男ジョン・レノンを殺すために三度目にニューヨークに発つのは、負債を解消した夏から数ヶ月後の1980年12月6日のことであった。
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