ネコ写真_3:アルベルト・モラヴィア

撮影者・撮影年等不詳。
ただしネコの名はファモッシモ(Famossimo)。
自宅書斎にて。

モラヴィアの小説には回想にネコが幾度も登場する。(引用はいずれも英訳版の勝手訳)
まずベルトルッチ暗殺の森』(1970)の原作Il Comformista(1947、邦訳『孤独な青年』)より。ネコにまつわるエピソードがわりと重要な話だが映画で出てきたかどうかはあまり記憶にない。

マルチェッロはトカゲを殺したことを母に打ちあけて、自分が間違ったことをしたのか尋ねたかった。しかし母のせわしさは彼の気を変え、心の内に彼が用意していた言葉を改めさせた。急に、こうも忙しい人間の注意を惹くにはトカゲという動物はあまりに小さくて些細なものに思えてきたのだ。訳知らず、彼はその場で自分の罪を誇張する嘘を思いついていた。鈍く眠っている母としての感性を、その罪深さがどうにかして呼び起こすのではないかという期待があった。そして自分でも驚くほどに確信に満ちて彼は言った。「ママ、ネコを殺したんだ。」

Alberto Moravia, Tami Calliope (tr.), The Conformist, Zoland Books, 1999, p. 13.

そしてLa Noia(1960、邦訳『倦怠』)。

……その衝動は私を幼少のころへ、私が自分の冷酷さに自覚的だった時代へと遡らせた。当時、私は大きなネコを飼っていた。私はこのネコが大好きだったが、しばしばこれは倦怠の種になった。とりわけ、一緒に遊んでそれがどれほど賢いかを試してみた後に顕著だった。退屈に冷酷さを注がれた私は、次のような遊戯を行なったものだ。まず、ネコが好んでいた生魚を少しばかり皿にのせ、部屋の隅に置く。そして魚の匂いを嗅がせてからネコを部屋の反対側の隅に連れて行き、そこで放すのである。ネコは尾の先から鼻先まで全身に喜悦と貪欲さをみなぎらせて皿に突進する。ところが私は待ち構えていて、部屋のちょうど真ん中に来たところでその首を稲妻のごとき素早さでつかまえ、再び出発点へ戻すのである。このゲームを繰り返していると、ネコは少しずつその理解し難い不運に気付きはじめ、振舞いを変えるようになる。最初のころは確信に満ちて荒々しく貪欲だが、次第に用心深くなり、まるで私の監視をかいくぐって自分の存在を見えなくするかのように身を屈め、注意深く手足を進めるようになる。最後には、この哀れなネコがやることは皿の方へ動くように見せる僅かな素振りだけになり、狡猾ながらも憂鬱そうに、私がなお冷淡に待ち構えていることを無駄な労力をかけずに確認しようとするのである。そして突如、すべてが一変して、ネコは話し始める。つまり頭を持ち上げて私の目を見つめ、長く意味深げな鳴き声を発するのである。心震わせると同時に分別くさくも聞こえるその声は、こう言っているようだった。「なぜこんなことをするのですか? なぜ私にこんなことを?」 この正直で雄弁な鳴き声は私をたちまち恥じ入らせた。顔が紅潮さえしたような気がする。私はネコを腕に抱いて皿まで連れて行き、そこで魚を食べさせたのだった。

Alberto Moravia, Angus Davidson (tr.), Boredom, New York Review of Books, 1999, p. 111.

これはネコが偉い、のか。
ムッソリーニモラヴィアと見てくると、やはりあのマーロン・ブランドの有名な画も思い出さざるを得ない。何かが似ている。ネコ自体が時に獲物を嬉々として弄ぶ動物だし、男性性とネコはある意味、記号化されたサド/マゾヒズム的な共犯関係を結ぶのかも知れない。そして、それは一般に愛と呼ばれる。
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