続・はてな

「空気」などに関する思いつきのいくつか。書き直すかも知れず。

(一応、承前

そういえば、SNS には内部にユーザーの能動的関与によって形成される集団(コミュニティ)があり、2ch には「板」という同様の内部コミュニティがある。また SNS の場合は明示的にコミュニティを選択しなくとも、活動の最低単位としてユーザー各人が属人的に抱えるミクロな内部コミュニティ(つまり友達)に参加することが前提であることが多い。2ch では、構造としてあらゆるユーザーはいずれかの「板」を選択せねばならず、ユーザー同士、ユーザーと 2ch 外部との交流もそこでしか生じない。「板」に属するユーザーには「住人」という呼称があり、自らの能動性によってそこに参加する「住人」は、「板」が性格をもったコミュニティであることを自覚しその「空気」を尊重して振る舞う。「空気」の読めない者は排除される。

能動的関与によって集団に参加するユーザーには、コミュニティが抱える大小の重力と空気、つまり世間のようなものへの配慮が生まれやすいのではないかという気がする。と同時に、コミュニティの名称は明示化されたレッテルとして万人に共通に付与され、これは相手の属性の指標として分かりやすく機能する。「どこそこの板の住人」あるいは「某アーティストのファン」には言葉は通じない、したがって対話は成立しないだろう、という判断は、よいか悪いかは別にして機能的である。

一方で「はてな」にはグループなどの内部コミュニティがあるものの、多くのユーザー活動(主にダイアリーとブックマークか)はグループなどの内部コミュニティの成員という属性なしに表出する仕組みになっている。彼ら(自分も含め)は、まさしく「はてな市民」であってそれ以上の属性が見えにくい。

はてな」のユーザーというカテゴリー、つまり「はてな」というコミュニティについて考えようとするときには、内部的にも外部的にも「はてなの空気」というものを想定しがちだが、個別の印象の総和を出発点にした場合、これはいろいろなものの混成になっておそらく個人が即座に十分「読める」空気ではなくなるだろう。しかしながら、この「空気」は理解しがたいものが万遍なく醸成されているということではなく、そもそも存在しない。「空気」とはおそらく「空気を読もうとすること/読ませること」だが、多数が読むことのできない「空気」は存在しないのと同じである。であれば、「空気」の見極めを通じた「はてなコミュニティ」という属性の仮定はあきらめなければならない。「はてな」のユーザー集団が一定の性格をもつコミュニティに見える場合は、それはこうした「あるように見えるが読めない空気」に由来する部分もあるのではないかと思う。とすればその印象が「分からない」「気持ち悪い」となるのは当然である。そして(このメモも含めて)「『はてな』は云々」という「はてな」の俯瞰を前提とした「はてな論」は空転しがちになる。

この「はてな」の仕組みには、ユーザー同士が発言や活動内容のみで互いの属性を見極め、それによる互いの発見を促すという意味でよい面もあるが、「空気」を見ることのコストを節約したいユーザーにとっては所与の指標があった方が楽である。つまり、空気の読みにくい、得体の知れないという意味で「気持ち悪い」集団に属するよりは、題目の付いたコミュニティに最初から住み分けた方が気安く振舞える。内部でレトリックとしてレッテル貼りを用いつつ議論(あるいは議論のための議論という戯れ)を行なうのは、そういう意味で非常に高度な活動であって、誰もが行なう意味はない。

はてな」の名目上のオープンさが生むものはインターネット的オープンさのひとつの帰結であるとは思うが、「ソーシャル」という実社会から借りた足枷があった方が「集団のようなもの」を集団として活動させるという意味では有利な場合もあるのかも知れない。蛇足だが、「はてな」が本気でいわゆる「ふつうの」ネットユーザーに訴求しようと思えば、内部で住み分けを行うための何らかの仕組みが必要になるだろう。外から見れば「はてな」はやはりひとつの集団であり、空気を読めない集団に飛びこむという決心は難しい(そうした指標があくまで外から見た際にしか機能しないものであり、実質的には何も変えないとしても)。