ネスレのNGOスパイ事件のこと

20世紀の夜警三名(1, 2, 3)について調べたきっかけは、下に記すネスレによるNGO団体へのスパイ活動が気になっていたからだった…のだが、警備会社という唯一の接点を除いてこれらの話題につながりはない。ひとつの連想の覚え書きとして書いておく。
何事も起こらないことが至上の目標である警備員という職が注目されるのは、やはりその当事者の職責を凌駕する事件が起こり、あるいは起こし/起きてしまい、これと社会が呼応した瞬間しかないように思える。比喩的には兵士、正確には共同体の栄誉に浴することのない傭兵として血を売って生きる彼らが立っている場所には名前という概念がなく、そこで彼らは代替可能なひとつの記号に過ぎない。伝統的な兵士であれば、彼らは死によって名を回復する途を与えられているはずだが、毎日のように殉職者が出るなかで名前を付されて報道される者がほとんどいないという事実は、彼らが共同体において文字通りにマージナルな領域に立ち続けていることを示しているようにも思える。
採り上げた三名を例にとるならば、クリストフ・マイリ(これは触れなかったが)とマーク・チャップマンはいずれも少年期に非行経験があり、いずれもクリスチャンとして再出発するという選択を行なっている。彼らが選択した(せざるを得なかった)警備員という職はおそらく共同体とその周縁部の接線にあった。ウォーターゲートの通報者フランク・ウィルズの命運は象徴的なものだ。共同体の構造においてまさしく境界線上の触媒として機能したウィルズは、そこで自らの名を挙げてしまった故に、ついにそれ以外のどこにも居場所を見出すことがなかったように思える。事実として『大統領の陰謀』のあの二人の記者が巨額の褒賞を手にし、またフィクションにおいてフォレスト・ガンプニクソンと談笑しているとき、ウィルズが所有することを許されたのは記号としての価値以外のものではなかった。

ネスレのスパイ:〈警備会社のX〉

今年、スイスの大手民間警備会社セキュリタス(Securitas)が、フランス語圏スイス、つまりネスレ本社の「お膝元」の複数のNGO団体に対してスパイ活動を行なっていたことが明らかとなり、過去に三つの事例があったことが暴露されて様々なレベルで問われる問題となった。
まず国のレベルを含めて問題とされたのは、市民に対する情報収集活動が、個人の安全や情報保護の観点から問題であるという点。さらに、市民の安全保障を名目とした情報収集は本来警察が担うものであるが、これを民間の会社が行なっていたという点(警察がこれを事前に把握していたという事情もある)。そして、社会的なスキャンダルとしては、この活動をセキュリタスに対して指示していた*1のが食料品世界最大手ネスレであり、調査対象がアルテルモンディアリスム団体および動物の権利保護団体などの市民団体であったという点である。ネスレネオリベラルなグローバリズムを疑問視する人々にとっていかなる存在であるかということは、ここに書くまでもないだろう。そのネスレがATTACなどに対してG8期間を対象として諜報活動を行なっていたのである。
詳細な行きさつはここに書くかも知れないし、書かないかも知れない。逐一報道を追っているわけではないし、この文章を読む者にとってネスレという名前がそれほど鮮明な意味を持つわけではないとすれば、これはおそらくあまり面白味のない海外のスキャンダルに過ぎない。
「市民団体に影響力を与え過ぎないため」(これはネスレ元CEOの言である)の活動の委託先としてネスレは警備会社と手を結び、セキュリタスはこれを受けて特別な採用を行なって工作員を募った。少しばかり気にかかるのは、工作員としていずれも数年間にわたって市民団体に潜入していた彼ら(そして彼女ら)がどうやって名前と顔を取り戻すのか、ということである。彼らは虚偽のアイデンティティの下にNGOに潜入したことが明らかになっており、現在もなお、自らの意思として報道において常に匿名の者として言及されている。そして、NGO団体を後にして以降の彼らの行方は杳として知れない…ことになっている。おそらく、それでいいのだ。だが彼らは今後、自らの歩哨としてその名が明滅する境界上に立ち続けることになるだろう。
その上で、結果的に失敗した作戦の前線にいたことになった彼らが、自らが売り渡したものに値するだけの何かを得たのだろうか、と思うことは、おそらく血を売って生きるという彼の国の伝統を知らない者の杞憂に過ぎないのだろう。

*1:セキュリタスがネスレに提案しネスレがこれを認めた、という解説もあり。両社は30年以上緊密な関係を続けているとされる。