隠喩としてのザ・ミスト、あるいはRead’em all!

はじめに書いておくと、この映画は面白い。キングの即物的な怪物趣味を視覚的に満足させつつ、しかも何やら人間的な希望やら絶望やらを観るものに考えさせてしまう余地をうまく残してある。賛否があるらしいラストも、霧が晴れる中で圧倒的な絶望を見せつけるというラスト・カットは上出来だと思う。絶望は清々しい。

ところで映画の出来とかキングの小説などとは無関係に、スーパー・マーケットに数十人が閉じ込められて極限状態に陥るというプロットはこれを何かの隠喩として見てしまうという誘惑に抗うことが難しい。つまり何かの〈縮図〉として見るということだが、一つだけその愚を犯しておく。以下は映画とは関係がない。
概して重苦しいこの映画で誰もが喝采を送りたくなったシーンがあるとすれば、おそらくそれは宗教おばさんミス・カーモディがオーリィに射殺されたシーンだろう。最初はバカにされるか無視するかされていた彼女はいつかスーパーの中でただ一人語り続ける存在となる。皆が疲弊していくに連れて次第に賛同者を増やして行き、ついには主人公の子供を生け贄に差し出せと言い出す。子供を必死に守る主人公一派に対して「全員殺せ」と叫んだ直後、彼女は射殺され、彼女の禍々しい繰り言に愛想を尽かしていた我々は満足する。この感触は子供が守られてよかったという〈人道的な〉安堵ではなく、狂信者らの優越を防いだという〈理性的な〉安堵でもなく、ただ鬱陶しい者を黙らせたという生理的な快がもたらす満足そのものか、ほとんどそれと同じものだ。当然、宗教がどうとか、銃器がどうとかいうこととは関係がない。声が大きく、思考停止した賛同者たちを力にして威張り散らす彼女を殺してしまいたかったという、それだけのことだ。
つまり何が書きたいかというと(卑近すぎる例かもしれないが)、最近「はてなブックマーク」で悪目立ちしている書評ブロガーになぜか感じる怒りも同じようなものなのかな、と思ったということ。こうした存在を利用せざるをえない日本の出版界を憂うべきかもしれないが、何より腹立たしい。せめて彼女が聖書を語るように語ってくれれば今頃は誰かが確実に滅ぼしていると思うのだが…