1999年のオウム真理教についての雑感

YouTubeオウム真理教関係者をゲストに迎えた『朝まで生テレビ』の録画がアップされていた。地下鉄サリン事件から4年後の1999年5月当時であり、教団が開き直りとも取れる活動を拡大しているころである。この半年後にオウム新法が成立、翌年に同教団は名称を変更する。

議論の当事者として、教団とトラブルになっている自治体の代表数名と教団の広報二名が参加している。オウム側として参加したのは当時の広報副部長および地域問題対策室長。番組の構成自体が自治体とのトラブルを再現する布陣になっていることもあり、「オウム vs その他」という構図が非常に鮮明で、まともに教団を擁護あるいは代弁する発言はほとんどない。事件後であり、自治体とのトラブルという実際的な問題を扱っている以上は当然の結果だろう。

全体の印象を一言で述べれば、「話の通じない」オウムの「若者」に対して「常識人」および「純朴な人々」が困惑し続ける番組である。それもあってか、問題の重大さとは裏腹に妙に緊張感がない。こうした印象を醸す理由は論者の世代が二回りほど違うためもあるだろうと思う。徹頭徹尾すれ違い続ける議論は不毛であるが、見ていると『朝生』の予定調和的な不毛さを何かが凌駕してしまう瞬間があるように思え、ドキュメント番組として少し面白い。

議論の中心となるのは、

  • 「教団の責任をなぜ認めないのか」
  • オウム真理教は事件当時と同じ教団なのか、それとも変わったのか」

という、解決しない二つの問いである。問いの背後にあるのは、教団を理解する端緒と恐怖を抑制するための手掛かりが必要だという、「一般市民」の切実かつあくまで素朴な感情である。これらに返答を得ることが共存のための議論の最低条件であるという点で、全体は一致している。

これに対し(好意的に見れば)オウム側は稚拙ながらも戦略的な議論によって応える。責任の問題について教団は事実関係の認定(裁判の結果)を見ることが先として態度を留保する。つまり組織の議論を個人の議論に置換し、同時に判断留保を正当化する。教団としての犯罪ではないのか、という本質的な問題について教義論争にもなりかかるが、これは大部分の論者に議論放棄させることになり議題は立ち消えになる。

変わったのか、との問いについての返答でひとつの焦点となるのは、事件以後ある教義を「封印」した、というオウム側の処置である。教団代表として発言する以上、オウム側にとって最悪の事態は彼らが「信者」として、教団すなわちその宗教への疑念あるいは「反省」を漏らしてしまうということである。これを避けるために彼らは教義の運用における選択という処置で応え、教義自体についての評価は行わない(この「封印」自体が教義と犯罪の関連を自認していることになっており、オウム側の論理はやはり稚拙なのだが)。

同じ点を巡って、参加者は「教団が間違いを犯した可能性があると思わないのか」とオウム側に問う。教義への評価を避けるのと同様、これに是で応えるのは信者としての背信宣言であり、教団指導者としての背任である。また、明るみになった事実を前にして否で応えるという無邪気な「反社会性」を露呈するわけにもいかない。したがって、この問いに対して彼らは沈黙せざるを得ない。この、追い詰められて沈黙を余儀なくされるいくつかの場面がひとつの番組的なクライマックスとなる。

ほかにもいろいろと興味深い点があるのだが、この議論の膠着具合はひとつのモデルケースとして見ることができるかも知れない。集団がそのアイデンティティと直結する形で災厄をもたらした場合にどう対処するのが正解なのかという問題は、集団の成因および成員がそのアイデンティティに依存する程度が大きいほど難しい気がするが、その困難はおそらく宗教団体に限られる話でもあるまい。極端な例では戦争後の外交なども含めて。

参考: