マイノリティ・リポート再び

公開当初に劇場でみた時には原作を意識しすぎたせいか「原作の方が…」という感想しか持てなかったのだが、最近観て思ったことなど書きとめておく。

原作との違い

原作と映画はほとんど別物である。共通しているのは

  • プリコグ(予知能力者)3名を中枢におく、未来の犯罪を予期して潜在的な犯罪者を未然に逮捕する警察的な組織がある
  • そこで働く人間がある時、自分自身が未来に殺人を犯すという分析結果を見てしまう
  • この組織の存続を巡って政治的な駆け引きがある

ことくらいで、物語の鍵となる〈少数報告〉の実像、組織と主人公に訪れる結末はほぼ正反対といってよいくらい異なる。
映画では最終的に犯罪予期システムの存続を狙う政治家の犯罪が暴露され、彼の自殺によってシステムの瑕疵が証明され(システムは彼が主人公を殺すことを予期していた)、その結果プリコグを用いた犯罪予期は廃止、プリコグたちは人間らしい生活を取り戻し、主人公の息子を失ったという傷も癒えて再び希望が訪れる…というハッピーエンドといってよいエンディングを迎える。これに対し、原作では主人公は予知システムの完全性を示すために公衆の面前で予期通りの殺人を行い、職を若き後任者に譲って自らは外惑星に逃れる。予期システムは存続する。非常に簡潔かつドライな結末である。また映画では途中から〈少数報告〉よりもアガサの母親の殺人が本筋になってくるのに対し、原作は〈少数報告〉がどうなっているのかがあくまで物語の鍵である。
原作は一言で言えば自分の未来を知りうる立場におかれた者が陥る論理的なジレンマ、つまりは一種のタイム・パラドックスの物語である。SF的な解決としては3名のプロコグが2対1という意味で〈少数報告〉を生むのではなく、ある特定の情況において3名がいずれも異なる時間線の出来事を予知してしまうというのが謎解きになっている。これが起こるのは誰かがそれぞれの報告を逐一見ることが出来る場合に限られるが、そこへアクセスできるのは予期システムの内部の人間のみであり、主人公の地位がその情報に触れる最大の権限を持っているというのがミソである。この自分の立場の特殊性を知った主人公が、最初は苦々しく思っていた若い後任者に「せいぜい気をつけたまえ」と言って去ってゆくラストは、SFを書きつつも普通の人間の凡庸な感情の機微を忘れないディックらしい。

映画の想像力

ではスピルバーグは何をしたのか。プロットを映像的に、より正確には映画的に敷衍したものという意味で、この映画の八割以上はまさしく映画的な想像力で出来ている。ヒッチコックの引用をモチーフにした冒頭の捕り物シーンは原作にはまったく描かれていない。「盲人の国では片目が王だ」から始まる〈眼球〉のモチーフも原作にはない。そしてプリコグの一人アガサを連れ出すというのも映画だけのアクションである。この映画で最も心震えるシーンは、連れ出されたアガサが自らの眼前で展開する〈現在〉に足をすくませつつ必死でそこに生きようとしているあのショッピングモールのシーンだ。「待って…待って…待って」…そして風船が追っ手の視線を遮る、動と静が時間の一点で絶妙に交錯するあの瞬間にこの映画のひとつの極点がある。

前作で『A.I.』を撮ったスピルバーグにとって、この映画におけるアガサのプロット、すなわち人間のものではない属性によって人間以下の生をおくることを強いられている者がついに人間としての生を手に入れる、という展開は重要なものであったに違いない。なぜならラストシーンで示唆される主人公とその妻に訪れた希望もまた、〈前もって〉アガサの口から語られているからである。主人公が逮捕される直前、落ち着きを取り戻したアガサが語る子供の物語は間違いなく〈未来の〉子供が成長する姿だ。希望は未来に由来するが、未来が希望であるのはそれが現在に生きる者の糧となるときだ。だからこそ主人公は機械の中でまどろむ赤子のようなアガサを奪い、荒々しい現在の中を走らせなければならなかったのだ。アガサは現在に生きることとともに希望というものを知ったのであり、主人公もまた、アガサという〈現在に生きる未来〉によって希望を回復したのである。片目の主人公とアガサが駆け抜けるショッピングモールの眩しさはアガサにとっての〈現在〉の眩しさであり、主人公にとっての〈来るべき〉光なのだ。
この映画の惹句に“Everybody Runs”というものがあったはずだ。主人公が走り、アガサが走ろうとするとき、この映画はたしかに映画にしかない輝きを見せている。
蛇足だが誰かが走り出すシーンを見るというのは映画におけるほとんど生理的なものに近い快楽だ。トム・クルーズの走る姿は美しい。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の空港でのディカプリオの走りも美しかった。スピルバーグ走る男を撮るのが巧いのかもしれない。
原作:マイノリティ・リポート―ディック作品集 (ハヤカワ文庫SF)
DVD:マイノリティ・リポート (新生アルティメット・エディション)